「か〜つ!!!」喝の由来について 坊さんのどうでもいい雑学
毎週日曜日朝に某番組で某野球解説者がやる「喝だ!」。
意外と有名なようです。この時間観るもの無いですからね・・・。
「喝を入れる」なんて言いますがその由来とは?
元々の由来は中国の唐の時代の臨済宗の開祖臨済禅師(臨済義玄 りんざいぎげん)が弟子を指導する時に「喝!」と怒鳴った故事から来ています。
どうでしょうか?とても怖そうな顔をしています(笑)
この臨済禅師は「一日三千喝」と言われるほどに弟子に対して「喝」と怒鳴りました。弟子を褒める時も喝、駄目な時も喝。「喝!」をされた時は弟子が自分で意味を考えます。
実はこれ臨済禅師のオリジナルでは無く、三代前の馬祖道一(ばそどういつ)がやはり弟子の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に対して「喝!」とやって百丈禅師は三日間耳が聞こえなくなった、というエピソードがあります。よほど大きな声だったのでしょう(笑)。
こちらではこのように紹介されています。
現代では叱咤激励の意味で使われている言葉ですが、これも禅の世界でよく用いられてきた言葉です。禅における「喝」には4種類あるとされています。
(1)相手の迷いや執着を断ち切ってしまう、剣のような「喝!」
(2)相手の思い上がりを粉砕してしまう、ライオンの咆吼のような「喝!」
(3)相手の力量を測るために発する、探るような「喝!」
(4)上の3つを包括する、大きな「喝!」
元々大切なものは言葉では伝えられないと言うのが禅の立場ですので「喝」に大切な意味を込めているわけです。
また臨済禅師と同時代に徳山と言うお坊さんもいてこちらはとにかく弟子をひっぱたいたそうです(笑)
質問に答えても30発殴り、答えなくても30発殴り、とめちゃくちゃですね(笑)
今ではちょっと考えられませんが当時はそれだけ教える側も教わる側も真剣だったかと思います。
当時は皇帝による大規模な仏教への弾圧があり、それに負けじと皆必死だったと思われます。当時の人が必死で残してくれたから今があるわけで。
実はこれ、うちの宗派独特と思いますがお葬式で必ず「か〜つ!」と大声でやります。
ウトウトしていた会葬者はこれでかなりビックリするようです(笑)
(女性のお葬式の場合に「い〜つ!」と言う場合もあります)
個人の名前、享年、どういう人柄でどういう人だったのか等の紹介が終わって最後に「喝!!」とやります。これは「迷いを断ち切ってあの世に行けよ」という意味と聞いています。
まとめ
いかかでしたでしょうか?張本氏がいつから「喝」をやり始めたかは定かではありません。ご自分が野球の指導者から教わったのでしょうか?
「喝」を聞いたら臨済禅師を思い出してくれると嬉しいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
アパホテル歌舞伎町タワーに泊まったら火事で避難した話
2018年 1月11日朝、歌舞伎町のアパホテルで火災があり避難しました。
朝9時前に突然室内に警告音が鳴り「火事です」の自動音声が流れました。
昨夜寝るのが遅かったのでベッドでうとうとしていましたがちょうど起きようとしていた時でした。
たまにある警報装置の誤作動かと思っていると「5階で火災が発生。鎮火したが念のために非常口階段から避難して下さい。」と非常に落ち着いた男性の声でアナウンスがありました。
「マジか」と寝ぼける頭で服を来て財布とスマホを持ち廊下へ出ました。
「煙ふせぐ〜んかタオルで口を抑えて下さい」とのアナウンスがありそのようにしました。
煙ふせぐ〜んとはアパホテルの客室のドアの裏に付けてあるビニールの袋です。
まさかと思いましたが念のために持ち出しました。
開けてみました。
実際被ってみると大きな袋で息苦しい感じもありませんでした。
さて廊下に出てみると24階ですが、焦げ臭い感じがあり「これやべえやつじゃん」と焦りました。
非常口のドアのロックを解除して階段で下まで。焦ってキーの閉じ込みをしてしまいました。
黙々と階段を降りていると清掃のお姉さんも出て来て一緒に階段を降りました。
さすがに24階からだとなかなか着きません。
下に降りると誘導があり裏口からロビーの方に。
すでに警察・消防が来ていました。お疲れ様です。
玄関前の広場にはすでにスマホでホテルの写真を撮ってる人が何人もいました。時代ですね(笑)。
ロビー前で待機していると広場に移動して下さいと誘導がありました。
宿泊客が大勢いました。
浴衣のまま降りて来た人、松葉杖の人、車椅子の人、アジア人、色々いました。みなさん落ち着いていてびっくりしました。裸足の方もいました。スタッフが案内をしていますがメガホンの声が小さくよく分かりません。お客よりスタッフがパニクってる印象。
寒いので向かいのファミマ店内に避難されている方も多かったです。
20分後ぐらいには安全が確認できたということで皆さん部屋に戻られだいぶ行列も減りました。僕は鍵の閉じ込みをしてしまいフロントで鍵をもらうので最後の方まで待っていました。
途中浴衣でバスタオルを羽織っただけのカップルがエレベーターの列に列んだところいかつい白人さんが前に入れてあげていました。外国人はこういうのさらっとやりますよね。良かったと思います。
部屋に戻る時のエレベーターに乗ったら途中浴衣のおじさんが乗って来て何かと思ったら最上階の大浴場に行くようでした。凄い平常心だなと笑ってしまいました。
まとめ
無事にフロントでキーを受け取り部屋に戻ったのも1時間後くらいでした。
部屋に戻るとドッと疲れてしまいました。腰も痛い。
今回ホテルからは特に保証、サービスはありませんでした。
11時過ぎごろチェックアウトするとロビーで女性スタッフが2・3人で「申し訳ありませんでした」とお辞儀をしました。
今回の件で同じホテルはちょっと怖いですがアパホテルは場所が良いんですよね。池袋でも最近は良く使っています。
ただ今回も浴室に誰の物か分からない長い髪の毛が一本あり、清掃が悪いのは何とかして欲しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
私説 般若心経 解説 般若心経ってどんなことが書いてあるの? 坊さんのどうでもいい雑学
般若心経、おそらく皆さんも馴染みのあるお経と思います。
日本でも様々な宗派で広く読まれているお経です。
(浄土真宗では読まないと聞きましたが)
以前紹介した三蔵法師(玄奘三蔵 げんじょうさんぞう)の翻訳で知られています。
わずか262文字に仏教の奥義が込められています。
内容を見て行きましょう。
観音様と釈迦の弟子・舎利子(しゃりし シャーリプトラ)への対話形式
このお経の内容は日本でもおなじみの観音様がお釈迦様の弟子である舎利子に教えるという形式になっています。
「摩訶般若波羅密多心経」(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
般若心経の正式名称です。摩訶とは偉大なという意味で般若は智慧。
偉大な真実の智慧の完成という意味です。あたまに「仏説」と付くこともあります。
「舎利子よ、私が偉大な智慧の完成のためにとことん行をした結果にたどり着いた真実について話そう。」
「一切の苦を取り除くために人間を構成する肉体・感覚・想像・心の作用・意識について考えてみたがそのどれにも《これが自分だ》というものは見つからなかった。」
「確固とした自分という《実体》はどこにも見つからなかったのである。」
「舎利子よ、世の中の形あるものには実体は無いのだ。」
「あらゆる物体には実体が無く、原因と条件によって成り立っているにすぎない。」
諸法空相(しょほうくうそう)
ここが難しいところなのですが、「諸法空相(しょほうくうそう)」と言ってお釈迦様の悟りの一つとされて「全ての物は色々な物の集まりにすぎない」というものです。
例えば「草庵」と言うものがあります。
わらやかやなどで屋根をふいた粗末な小屋のことです。
わらや柱や縄など簡単な材料の組み合わせで作られていて壊す時も簡単にバラバラになり、壊してしまえば何も無くなってしまいます。
こんな感じの物です。
また昔から「車」に例えられていますが
例えばこれは「リヤカー」で検索しましたが、車と思って下さい。昔ならこのような形のものを馬や牛や人が引いていたのもが多かったと思いますが
「車輪が車なのか」
「引っ張るところが車なのか」
「荷物を入れるところが車なのか」
「骨組みが車なのか」
どれも正解ではありません。
全てのものが調和してうまく機能して初めて「車」と言うものが出来ます。
これをバラバラにしてしまえばまた「車」は無くなります。
世の中の全ての物はこのような条件で成り立っており、人間も例外ではありません。
このような問答は古代インドで既に散々に議論されています。
つまり、人間にも「我(自我)」「魂」といった「物体」のような物は存在せず、
「人間の心も常に様々な条件によって常に変化する」
と考えています。
このような状態を「空」と言います。
「空」とは「有であって有で無く、無であって無で無い」状態です。
「物体は空という性質があり、空はすなわち物体そのものである。」
「その空と言う性質は物体だけでなく精神作用にも当てはまる。」
「感覚・知覚・意思・認識といった精神の働きも必ず変化するという法則の中にある。」
唯識(ゆいしき)
私たちは「自分」というものが存在して肉体があって五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)で外界の物事の存在を知ります。これに「自覚できる意識」を加えて6識。
これに三蔵法師のところでも書きました「阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)という2つの「無意識」を加えて8識とします。
Wikipediaよりお借りしました。
人間には無意識である「末那識」とさらにその奥にある「阿頼耶識」というものがあって「外界という世界は存在しない」と考えます。これを「唯識」と言います。
唯識は無著(アサンガ)という人が「弥勒菩薩」に教えてもらって世親(ヴァスバンドゥ)という弟が書物にまとめたとされています。
つまり全ての物体は「存在せず」、「心の中にだけ存在するものである」とします。
なぜなら「心のあり方によって外界も変化」するからです。
しかし阿頼耶識にも「実体」があるわけでは無く「瞬時に現れ、瞬時に滅する」と
考えられています。「恒に転ずること暴流する滝のごとし」と言われ物凄い勢いで常に変化していると考えます。
そしてこの阿頼耶識自体は善でも悪でもありません。 半ば汚染されていて半ば清らかと考えます。
しかし、6識に末那識を加えた7つの識は「外界の現象の出来事」を阿頼耶識に植え付ける。
7識が生きてる限りに活動の結果や、その認識対象が得た物全て「種子」として阿頼耶識に植え付けられます。これを衣に焚いたお香の香りが染み付く事に例えて「種子薫習(しゅうしくんじゅう)」と言います。
そしてこの阿頼耶識をみて「これが自分だ」と勘違いするものが「末那識」と言われています。阿頼耶識を見て「これぞ実体だ」と執着するものも末那識です。もちろん末那識も無意識です。
人間は第7識である末那識がある限り「我執」、「執着」が無くならないとされ、また「煩悩」も末那識がある限り消えません。煩悩を消すためには「無意識」である末那識を無くさなければ無理なのです。しかし人間にはそんな事はできません。
人間が寝ていても末那識は活動しているとされています。
つまり末那識は「自己」というものが存在しないのに阿頼耶識を見て錯覚するのです。
そして阿頼耶識は「刹那に生じ刹那に滅する」ものであり、実体は無いので「空」であるとなります。
したがって物質は「生まれるということもなく滅するということもなく、汚れることもなく清らかになることもなく、増えることもなく減ることもない。」
なぜなら元々実体など無いからである。
「眼や耳や鼻や舌や触覚、自意識それぞれの感じる物も普遍なものは無く空である。」
「私たちは感覚器官で感じ取ったものを世界と理解しているが感覚の世界は《実体は無い》のである。」
「世の中には暗いということも無く、暗いことが尽きるということも無い。」
「老いということも無く、死ということも無い。」
「あらゆる物には実体が無いのであるから苦も無い。苦が無いのだから苦を滅する道も無い。」
「頭で理解しようとすることでは悟りを得ることもでき無い。」
「仏の道を極めようとするものは偉大な知恵の完成を目的とする故に心を曇らせることがありません。」
「曇りが無いから、恐怖も無く迷いや妄想からも遠く離れている。」
「究極の悟りの境地に至るために、過去・現在・未来の諸仏も真実の知恵の完成により悟りを得たのである。」
「故に真実の知恵の完成の言葉を知るべきです。《般若波羅蜜多》はこの上ない真実の言葉で比較することが出来ない真の教えです。」
「全ての苦悩を除くものであり、真実であって虚しくありません。」
「だから真実の知恵の完成である《般若波羅蜜多》を説きましょう。」
「行けるものよ、行けるものよ、仏の世界に行く者よ。仏の世界に共に行くものよ、悟りよ。幸いあれ。」
「ここに完全な知恵の心が完成する。」
ここで般若心経は終わりです。
まとめ
いかがだったでしょうか?ただの翻訳は他にもあるので自分の勉強したものをぶつけて書いてみました。かなり詳しく書いたつもりです。
般若心経は仏教の「奥義」と言われるほど大切で難解とされています。
言葉で説明するのはなかなか難しいですが僕も文章を書きながら改めて考えがまとまって来た感じです。これも仏のお導きでしょうか?(笑)
般若心経は「空」について書かれたお経ですが人間に当てはめた時には「唯識」の説明が必要になると思います。「空」だけでも充分に難しいのですが(笑)。
この唯識の教えを学ぶのが以前にも書いた「法相宗」という三蔵法師の弟子の始めた宗派です。
阿頼耶識というのは「瞬時に生じ瞬時に滅する」ものでその繰り返しが時間の経過を表しているとされています。そしてその時間の経過が「輪廻そのもの」と考えます。
仏教は決して「我」や「魂」というものを認めません。
では一体何が罰を受けたり生まれ変わるのかその主体が「阿頼耶識」です。
なぜ生まれ変わるかというと「悟る」ためです。仏教の目的は悟ることであり、あらゆるものは「悟るために存在する」のです。
しかしこの阿頼耶識も「空」であり実体ではありません。
また阿頼耶識は「無意識」ですので生まれ変わっても記憶などはありません。
ちなみに仏教では「生まれ変わり」は良いことでは無く、「生」に執着があると生まれ変わるとされています。仏教では「生」は苦しいものです。
この執着を無くすと輪廻から解き放たれて「解脱」となり「涅槃」に入ります。これこそ安らぎと考えています。これが理想な状態なのです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考文献
日本人のための宗教原論 小室直樹
フィリピン ニノイ・アキノ国際空港 CLUB MANILA をご紹介
9月に友人とJALでマニラに行って来ました。
復路かなり時間があり第一ターミナルの「CLUB MANILA」に入ってみました。
750ペソでした。
実はマニラには何度も行ってますが利用は初めて。
ターミナル1って何も無いんですよね。
利用しませんでしたがトイレの隣にシャワースペースがありました。
一つしかありませんでしたがとても空いていたので問題ないと思います。
友人がモテない僕の為に思い出にラウンジのスタッフとの写真を撮ってくれました。
スタッフは他に小柄な男性が一人だけ(フィリピンは小柄な人が多いです)
友人はサラダばかり食べていました。
僕はいまいちなサンドイッチ
ソフトドリンク
お酒。確かビールもあったと思います。
こんな感じでとても空いていました。
僕たちが入った時には日本人らしき男性が一人。
その後インド系と思しき大柄の男性とお金持ちそうな現地人らしき女性がいました。
ヌードルらしき物もありましたが暑いので食べませんでした。
定番?のナチョス。ディップがとても辛そうでスルー。
あ、ありました、ヌードル。チキンならどの宗教でも食べられますね。
多分カップヌードルです。
まとめ
治安が悪くて不人気のマニラ。日本のビジネスマンもチラホラ見ました。
このラウンジはまあ値段相応と言う感じです。
値段によってはマッサージなど色々サービスがあるようでした。
時間の制限もあったような・・・。覚えていません。
他にもいくつかラウンジがありました。
第一ターミナルは何も無いですからね。
今回往路でめまいが出てしまいずっと元気がありませんでした。
今も、多少ふらつきます。
健康で無いと何もできませんからね。
皆様も健康にはお気をつけて!
最後までご覧いただきありがとうございました。
名僧紹介 三蔵法師(玄奘三蔵)について 坊さんのどうでもいい雑学
皆さん突然ですが三蔵法師って知ってますよね!?
白馬に乗ってるあの人、
そう夏目雅子さんの姿でアラフォーには有名ですよね(笑)
この方のモデルは実在の人物で当時鎖国をしていた唐(中国)からインドへお経を求めて旅をされました。
名前は玄奘(げんじょう)で三蔵法師と言うのは仏教の「経・律・論」の三つを修めた僧に与えられる称号です。ですから三蔵法師と言うのは他にもいます。
この玄奘が629年に陸路でインドに向かい645年に沢山のお経を持って唐に帰って来ました。その時の記録が「大唐西域記」として後の西遊記のモデルになりました。
とても優秀な方で有名な「般若心経」や「大般若経」と言う600巻もある長いお経の翻訳者として知られています。
この方が「法相宗(ほっそうしゅう)」という大変難しい学問的な仏教の開祖になっていてこの方の弟子の遣唐使の「道昭」という人物によって日本にもたらされて奈良時代に盛んになりました。現在観光地で人気のある「清水寺」は法相宗のお寺です。
法相宗の教えは非常に難しく、「唯識」という思想を伝えています。
難しいですが重要な教えです。
唯識とは人間は認識したもの以外のものは存在しないというもので「意識・無意識」について学ぶ学問的な思想です。「末那識・阿頼耶識(まなしき・あらやしき)」というのはここから来ています。
まとめ
うちの本堂にも三蔵法師の絵が飾ってあり、最近読んだ笑い飯哲夫さんの本にも三蔵法師が出て来ました。非常に重要な人物です。
今回玄奘三蔵をググったらゲームやアニメのキャラばっかりで驚きました(笑)。
あのお経の本をパラパラとやるやつです(笑)。長いお経なのでなかなか読めません。
おまじないや祈祷の時にやります。これでお経を「読んだ」ことになります。
最後までご覧いただきありがとうございました。
読書感想 ブッダも笑う仏教のはなし 笑い飯哲夫 サンマーク出版 坊さんのどうでもいい雑学
先日何気なくAmazonを見ていたら帯に見慣れた顔のある本があり、面白そうで買ってみました。
こちらの本です。
読みやすいし、内容も仏教全般について幅広くなかなかの蘊蓄があります。
結構詳しいので中級者向けかもしれません。
まず面白いのがお釈迦様が関西弁(笑)。これは新鮮です。
文章も漫才での語り口そのままで、とてもリズミカルです。
哲夫さん沢山本出してるのですね。
この本の中でいきなりうちの本山のひいきが出てきて驚きます。哲夫さん自身は曹洞宗ですが最初に哲夫さんに仏教の講演を頼んだのがうちの本山らしくてひいきしてくれているようです。うちの本山はなかなか保守的なのですが思い切った事しましたね(笑)。
本の後半に生活の中の仏教用語が出てきますが、日本人の精神には無意識のうちに仏教の精神が入っていると思います。
自分の心を省みるところなど仏教的と思います。自分の外でなく内に神性を見るというのは大乗仏教的と思います。そこが仏教独特の穏やかさに繋がると思います。
「仏教とは生きてる間の人生哲学」
この本の中にこのような章がありました。
禅や仏教はとても「哲学的」と思います。宗教というよりは哲学。人生を楽に生きるための考え方の一つと思ってください。
人生には様々な出来事があり、もしあなたに助けが必要なら仏教の世界をちょっと覗いてみてください。きっとお役に立ちます。あなたが完全だったら必要ないかもしれません。
「この世は、すなわち「カレー」である」
このような見出しもありました。
世の中の物全てを鍋のカレーとおたまの中のカレーに例えています。
これは全体と「個」の考え方で特に仏教的な考え方です。他人も自分も「元」は一緒でたまたま今現れている「自分」を自分と思い込んでいるだけ。鍋に戻せばまた全体になり、また掬ったらまた別の「自分」が現れるという考え方。
だとすれば自分とはなんなのか!?
まとめ
よく日本人は「自分は無宗教だから」と考えるのだそうですが日本人の生活や文化には仏教的な物に溢れていて今更切り離す事はできません。
除夜の鐘、お葬式、法事、お盆などについても全く関心が無い訳では無いと思います。
海外で「無宗教」と言うと共産主義者か「何をしでかすか分からない変わり者」と、認識されるそうです。共産主義は「無宗教」で宗教を否定していますが共産主義そのものが宗教です。
また、海外で「善悪」の物差しを決めるのも宗教ですから宗教が無い人は信用されません。こういった点で様々な「ルール」をきちんと守る日本人はかえって異常かもしれません。
どんな宗教であれ「信じる」と言う事は尊重されるべきです。
お読みいただきありがとうございました。
禅ってなんですか? 坐禅についてご紹介 坊さんのどうでもいい雑学
今回は「禅」について。
ついつい自分が禅宗のお坊さんなので「禅」ってメジャーと思ってしまうのですが馴染みの無い方も多いと思いますので。
禅というのは「坐禅」のことで「禅宗」というのは修行の中心を坐禅にしているということです。
坐禅というのはもともとお釈迦様が悟りを開いたときに菩提樹の元で坐禅をしていたときに明けの明星(明け方の金星)を見てパッと悟りを開いたそうです。
坐禅というのはヨガの一種と考えたらわかりやすいかもしれません。
基本的には姿勢と呼吸と心を整えるものです。
ちなみに「座禅」は間違いで「坐禅」と書きます。
座は座席のことで座る場所のことで「坐」というのは座る「動作」をあらわしています。
坐禅の組み方
写真のように片方の足を上げるのを「半跏趺坐(はんかふざ)」両方の足を上げるのを「結跏趺坐(けっかふざ)」と言います。
結跏趺坐が理想ですが足の短い東アジア人にはきついですかね。結跏趺坐の必須の修行場もありますが基本的にどちらでも構いません。
そして腰骨からまっすぐに伸ばして腹式呼吸をします。吐いて吸ってで一回。これを一から十まで繰り返しまた一に戻ります。これを「数息観(すうそくかん)」と言って初心者はおすすめされています。
出来るだけ鼻呼吸が良いと思います。
この三つを 調身・調息・調心と言います。
菩提達磨(ぼだいだるま)
5世紀後半にインドに生まれた達磨(だるま)がインドから中国に渡り、そこから中国に「禅」が広まったとされています。
洞窟の中でずっと何年も坐禅をしていて「手も足も無くなってしまった」と言われています。だからだるまさんはまん丸なのです。
禅と日本文化
皆さんに知って欲しいのは「禅」というのは日本文化に大きな影響を与えているということです。
「茶道」の大成者千利休が禅を修行して「わび茶」を完成させたのは有名です。
できるだけ余計な物を排除してシンプルに考える。
派手さよりも装飾の無さに価値を見出す。
いわゆる「引き算」の文化。
建築などにも「禅宗建築」というものがあります。
「懐石料理」も昔お坊さんが一日二食の時に夜温めた石を懐に抱いて空腹を紛らわしたことから来ています。元々は簡単・質素な料理という意味でした。
「道」
禅の影響のある文化には「道」がついていると言われます。
茶道・書道・華道・剣道・弓道・柔道など。
私の出た大学でも剣道部があり「剣禅一如(けんぜんいちにょ)」という言葉が飾ってあります。
まとめ
最近ではAppleのスティーブ・ジョブズが禅にのめり込み考え方がシンプルになりそれが製品に生かされていると言われています。
また日本食、特に 「鮨」の板前さんは「禅的」だなと感じます。
出来るだけ余計な物を加えない。出来るだけシンプルに。そのストイックさに禅を感じます。頭ツルツルの方もいますしね。
あなたもシンプルに考えると生きるのが楽になるかもしれません。
ありがとうございました。