ラマダーンで色々あるからあえてイスラム教の素晴らしさを書いてみる 坊さんのどうでもいい雑学
みなさん世界中をお仕事や旅行で旅をされてイスラム教の国に行かれる事も多いかと思います。
特に最近はマレーシア旅行は人気ですし、インドネシアでお仕事の方も多いようです。
マレーシアのモスクで見事なイスラム建築をご覧になった方も多いかと思います。
またラマダーン(断食月)を前にインドネシアで過激派が活発になっていましたね。
それでは私の分かる範囲でイスラム教の良い文化について簡単に書いてみたいと思います。
ラマダーンについて
最近はみなさんラマダーンについては「断食をする月」というのはご存知ですね。
イスラム教ではヒジュラ歴を採用していて月の観測を元にした太陰暦になっています。
この9番目の月になると断食をします。
この断食を(サウム)と言います。
三日月を観測して新月の日没から一ヶ月行われ、昼間は飲食禁止で日没と共に食事をするのですがドカ食いをしてしまうためかえって太ってしまうそうです。
ヒジュラ(聖遷・移住)
もともと西暦622年頃、ムハンマドとムスリムの一団がメッカでの迫害を逃れる為にアスクム王国に移住した時の苦難を偲ぶ所から来ているようです。
ラマダーンの時期はムスリムの方は一段と敬虔な気持ちになるそうです。
この時期にムハンマドが神からの啓示を受けた「聖なる月」でもあります。
預言者ムハンマド
預言者とは「神からの言葉を預かった者」という意味です。
ムハンマドは天使ジブリール(ガブリエル)から神(アッラーフ)の啓示(お告げ)を受け取って「クルアーン」にまとめました。ムハンマド自身は文盲で書記たちがまとめました。
つまりクルアーンは「神の言葉」そのものですので書き換えたり勝手に解釈することはできません。
日本ではコーランと言われますがアラビア語では「アル=クルアーン」と呼ばれています。クルアーンとは「詠唱すべきもの・読誦するべきもの」という意味でつまり「アラビア語で声に出して」読まなければなりません。
この為ムスリムの子供達はクルアーンで文字を覚えるので文盲にはなりません。
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ - Wikipedia
クルアーンについて
クルアーンは神の言葉そのものですので絶対に守らなければなりません。それは行動を示しているもので、行動を守っていれば「イスラム教を信じている」ということになり、これを「宗教規範」と言います。イスラム教を信じていれば行動を守らなければなりません。(ただし、イスラム教には必ず「合法的な例外」があります)
つまりイスラム教では宗教規範が社会のルールとして適用されます。
清浄について
みなさんご存知のようにイスラム教では一日五回のお祈り(礼拝・サラート)があります。この時心身ともに「清浄」であることが求められます。(シーア派では三回)
欧米では若い女性でさえ三日間シャワーも浴びないという事がありますがイスラム教では礼拝のたびに体を清めます。
1、手を洗う2、口をすすぐ3、鼻の穴に水を入れそそぐ4、顔を洗う5、手首からひじまで左右を洗う6、手を濡らし額の方向から髪を触る7、足を足首まで洗う となっています。
もちろん日本にいるムスリムでそんなの守ってる人いないよ、と言う方もいらっしゃるでしょうが定められている以上守っている方も大勢いるということです。
コーヒーの文化
これは知られていないかもしれませんがコーヒーを飲むというのは元々イスラムの文化です。ムスリムの方はお酒を呑むのを禁止されていますのでコーヒーを飲みながら親交を深めます。アラビックコーヒーはユネスコの文化遺産になっています。
アラビックコーヒーというのはコーヒーの粉をフィルターを通さず直接煮込んでうわずみを飲みます。カルダモンというスパイスを加えて飲まれる事が多い様です。
コーヒーはオスマントルコからヨーロッパに伝わった様です。
みなさんも中東に行かれたり中東系の飛行機に乗るときは是非アラビックコーヒーを飲んでみてはいかがでしょうか。
イスラム(ムスリム)商人
イスラム教といえば「商人文化」です。特に遠距離貿易が有名でアッバース朝(750-1517)の頃には東はシルクロードを通って唐の都長安まで、海路では東シナ海まで西はエジプト、フランスまでと広大な範囲で活躍していました。特にインドから香辛料を仕入れてはヨーロッパで高値でさばき、同じ重さの金と取引されたといいます。
都のバグダード(バグダッド)には世界中の富が集まり「世界の十字路」と呼ばれました。
また学問も大変栄えインドから来たインド数字を元に「アラビア数字」が生まれました。アラビア数字が現在も使われているのはご存知の通りです。
この頃すでに為替・約束手形・小切手が流通していました。
この頃のアラビア世界を元に「千夜一夜物語」のシンドバッドの活躍が描かれました。
バグダードのアルブネーヤモスク
このムスリム商人の航海術を元に後のヨーロッパの「大航海時代」に繋がったと言われています。
まとめ
この様に中東では早い時期から高い文化・学問が栄えました。
CNNのまとめによると、外科手術・飛行装置・大学・代数・光学・音楽・歯ブラシ・クランク・病院・コーヒーがイスラムの10大発明とされています。
CNN.co.jp : 現代世界に生きるイスラムの発明10選 - (1/3)
この様に中世までのイスラム世界は大変栄えて世界をリードしていました。
以前ブログにも書いていますが、中世ヨーロッパのキリスト教の神父たちは聖書を読む事が出来ず、イスラム諸国に留学して聖書の読み方、ギリシャ哲学を学んでいました。
しかし残念ながら近代化には遅れてしまい、イスラム世界はキリスト教徒のヨーロッパ人の前に膝を屈しました。
「汚なきことクリスチャンのごとし」と呼んでいた野蛮人たちが、世界の主人になってしまった。というのが彼らの感想かもしれません。(歴史をみると戦争が強いのはだいたい野蛮人です)
トルコ共和国の初代大統領のムスタファ・ケマルが「欧州に学べ」と資本主義経済や近代的諸制度を取り入れ一日五回の礼拝を三回に減らし、女性のベール着用禁止、一夫多妻の禁止などを実施し、さらには「イスラム教を国教とする」というトルコ憲法の規定を廃止しましたが近代化はある程度しかうまくいきませんでした。
しかしイスラム諸国が近代化に失敗しているとはいえそれをもって「イスラムは野蛮」と断ずるのは早計ではないでしょうか?
個人的にはイスラム教が野蛮というイメージは欧米のプロパガンダと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
お香について思う事 坊さんのどうでもいい雑学
ご存知の様に仏教にお香は欠かせません。
皆さんも一度ぐらいはお香に触れた事があると思います。
お葬式や法事の線香や抹香で。
修行時代はお客さんの来る前に客間に一本お線香をあげるのが嗜みでした。
だからお線香が立っていると「あ、お客さんが来るのだな」と理解していました。だから今でもお参りの方が来る前は本堂にお線香を一本あげておきます。
また修行時代、坐禅をするときにはお線香を一本あげておき時間の目安にしていました。だいたいお線香が一本燃え尽きるには2~30分かかると言われていてこの時間を一炷(いっしゅ)と言います。一炷が終わると休憩です。
お線香や抹香も元々は香木といって天然の木から出来ていて、有名な白檀(びゃくだん)はインド原産で紀元前にはすでに香木として知られていました。
白檀はサンダルウッドといい香水にも使われています。一番良く知られているお線香の香りはコレが元になっている事が多くポピュラーな香りになっています。強い甘い香りがします。
白檀は熱しなくても香りがする事から仏像や数珠の原料にも使われています。
ことわざの「栴檀は双葉より芳し(せんだんはふたばよりかんばし)」の栴檀とは白檀の事で優れている人は幼少の頃から優れているという意味です。
また沈香(じんこう)というお香も知られていますが白檀に比べると香りは弱く感じますが少し爽やかでスパイシーな香りでした。先日本堂に置いてあったお香を開けてみたら沈香でした。
桐の箱に入っています。
中の包み紙を開けるとこんな感じです。
部屋で焚いてみました。
火を点けた炭の上に乗せて使います。(ピンボケすいませんw)
私も普段使わないのですが使ってみるとなかなか燃えるのに時間がかかりますね。
知っているお坊さんで自分でお香を持ち歩いてお寺の行事の焼香の時に袂から取り出して使います。
また本山の大きな行事に行くととても高級そうな香りがふんだんに漂っています(笑)。
今回価格を調べてみたら白檀より沈香の方がずっと高級でした。てっきり白檀が一番高いかと思っていました。
知っておきたい知識
ブログでは良く書いていますがうちの宗派ではお線香・焼香は奇数にします。これは中国から奇数が「聖数」とされている事から来ています。焼香も一回か三回。線香も一本か三本。これは台湾や香港などのお寺でも奇数のお線香を真っ直ぐに立てることか世界共通かと思います。
例外として日本の浄土真宗系ではお線香を二本で横に並べて置きますが世界では珍しいと思います。ただ日本では浄土真宗系が多いので当たり前に思うかもしれません。
まとめ
仏教に欠かせないお香ですがキリスト教では振り香炉が知られていると思います。
またイスラム教では頻繁に日常でお香を焚くそうです。これは魔除け的な意味らしいです。
仏教でも場を清めるとかやはり遺体の異臭を誤魔化すという意味があると思います。
元々お釈迦様の棺が白檀製だったという言い伝えもあるようです。
また昔の日本では貴族が着物にお香の香りを付けていたのも知られていますね。
京都に行くと老舗のお香屋さんもありますので皆さんも行かれたらお土産にお香はどうでしょうか?おそ松さんコラボのお香や匂い袋もありました。
京都の老舗のお香屋さんの松栄堂さんにお取り扱いがありました。
こちらもお薦めです。
私も月末に京都に行きますので機会があったら訪れてみたいです。
ちなみに最近流行りの煙の少ないお線香は火が点きにくいです。お気をつけ下さい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
名僧紹介 七朝帝師(しちちょうていし) 夢窓疎石(むそうそせき)
前回ブログで紹介した名僧中の名僧、夢窓疎石(むそうそせき)をご紹介いたします。
夢窓疎石、または夢窓国師はとても煌びやかな経歴を持っています。
国師(こくし)というのは尊称で「国の師」という事です。つまり天皇(帝)から贈られた号(別名)です。夢窓疎石は七人の帝から国師号を贈られています。だから「七朝帝師」。
しかも彼が亡くなってから四人の帝から国師号を贈られています。つまり弟子達もとても優秀だったという事です。
高級ホテルニューオータニの別館「夢窓庵」の名前はここから来ているかと思います。
現代にも残る「作庭」の名人
疎石は沢山のお寺を建てていますがそのどれもがとても有名で大変立派な庭を持っています。
西芳寺(苔寺)(さいほうじ)、天龍寺、虎渓山永保寺(えいほうじ)、鎌倉瑞泉寺、等々大変華やかな庭園を誇っています。
中でも西芳寺は皆さん一度は庭の写真などご覧になってると思います。
永保寺
西芳寺庭園は特別名勝、天龍寺庭園は日本最初の特別名勝、永保寺庭園も国の名勝、鎌倉瑞泉寺庭園も国の名勝になっています。また瑞泉寺は鎌倉きっての花の寺として有名です。
また西芳寺はあのスティーブ・ジョブスがお忍びで何度も訪れたそうです。
※現在拝観は完全予約制で事前申し込みが必要。拝観料3000円。
ちなみに義満が金閣寺を建てる際には西芳寺を参考にしたそうです。
これらの作庭をしたのには一つには当時仕事の無かった人達に仕事を与えるという目的があったと言われています。庭造りの手伝いをさせて賃金を与えたようです。
さてそんな夢窓疎石、どんな人だったのでしょう。
父は佐々木氏?
疎石は伊勢国(三重県)出身です。佐々木氏といえば近江(滋賀県)の六角氏が有名ですね。ちなみに源氏です。
小さな頃に出家し、山梨、奈良、京都、鎌倉で学んでいました。
昔はより良い師を求めて全国を廻るのは普通の事でした。行雲流水と言います。
中でも1303年に鎌倉万寿寺の高峰顕日(こうほうけんにち)に学んだのが大きかったようです。後に1305年には同じ鎌倉浄智寺で悟りを開きました。
悟った後も修行を続け、弟子を連れて各地を廻ります。
1325年には後醍醐天皇の命により南禅寺の住職になっています。
翌年には住職を辞しまた鎌倉に向かいます。
北条氏からの帰依も篤かったようなので呼ばれたのかもしれません。
1334年に再び南禅寺の住職になっています。この年後醍醐天皇は南禅寺の寺格を五山の最上位に定めています。
五山というのは当時、五山十刹(ござんじゅっさつ)というお寺の格式を決めた制度がありまして当時の官寺(かんじー公式に幕府が認めたお寺)を網羅していました。
これは当時臨済宗のお寺が力を持ちすぎた為に幕府・朝廷が寺を統率しようとしたものでやはり中国に原形がありました。
この制度は学生時代義務教育で学んだ記憶があります。
その中でも京都南禅寺は最上位または足利義満により別格で一番上にされています。
1335年には後醍醐天皇から「夢窓国師」の尊称を贈られます。
その後荒れていた西芳寺の建て直しをしています。
また後醍醐天皇の菩提を弔いたかった足利尊氏の帰依も受けて「天龍寺船」という中国(元)との貿易船を提案し、その資金で嵐山の天龍寺が建ちました。もちろん天龍寺の開山(初代住職)にもなっています。
疎石は76才で亡くなっていますが生前に
亡くなってから
今でも残る有名なお寺の建立に数々携わっていてそれだけでも異例なのですが沢山の天皇・上級武士に帰依されています。これだけ政治に関わるお坊さんも珍しいのですが仏教は中国の「儒教」の影響も強く、国王、政治がよくならないと世の中が良くならないという考えもあったと思います。
まとめ
この他にも著作物も残っており、足利直義にひらがなで仏教・禅の教えを説いた「夢中問答集(むちゅうもんどうしゅう)」を与えた他、足利尊氏などの人物を評した文章も残っています。
「夢中問答集」は分かりやすい為にその後印刷物になり何度も出版されたそうです。
またこの頃「五山文学」というものも鎌倉・京都で盛んになり「漢文」の詩や日記・詩文が多数作られこれも文化として木版の出版も盛んになったようです。
夢中問答集には疎石の庭造りに対しての考えも書いてあるそうです。
この肖像画を見るととても穏やかそうな顔をしていますが稀代の傑物と言って良いようです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
禅とお茶についてご紹介 坊さんのどうでもいい雑学
こんにちは。
久々に書いてみたいテーマが見つかりました。「お茶」について。
最近子供達が寺に来ると良くお話するのが「禅と日本文化」について。
禅は昔から日本文化に深い影響があります。
茶道・華道・剣道・弓道などなど・・・。「道」と付くものは禅の影響があると言われています。これらと比べると柔道の歴史は浅いですが(笑)。
その中でも「お茶」「茶道」についてご紹介したいと思います。
中国でのお茶の歴史はかなり古く詳細は分からないようです。
日本にお茶がもたらされたのは805年に最澄(比叡山延暦寺・天台宗の祖)が中国留学から帰国の際に持ち帰って来たのが初めのようです。
この頃は天皇や貴族たちが飲んでいたようです。主に輸入品だったようです。
下って1191年に日本臨済宗の祖、栄西(えいさい・ようさい)がやはり中国(宋・南宋)留学の際にお茶の種子・または苗木を持ち帰りそれからお茶の栽培が寺院を中心に広まったとされています。当時お茶は心臓を強くする薬または眠気覚ましという事で修行の手助けになる物と考えられていました。
当時のお茶はかなり濃かったようです。
日本最古の茶園として知られるのが京都右京区にある栂尾(とがのお)の高山寺(こうさんじ)にあります。
栂尾はお茶の栽培にとても適していたようです。
高山寺は明恵上人(みょうえしょうにん)が開いたお寺です。あまり有名ではありませんが元々、華厳宗(けごんしゅう)で現在は真言宗ですが独立しています。
こちらが明恵上人です。
高山寺公式ホームページよりお借りしました。
この頃はっきりしませんが鎌倉時代ごろと思います。
元々南宋(中国)から伝わったのは素朴を尊ぶ飲み方だったそうです。もちろん抹茶です。南宋という時代はとても文化が爛熟(らんじゅく)していた時代なのでかえって素朴を尊んだかと思います。後に有名な茶道の大成者、千利休も素朴なお茶の飲み方を好んだと伝わっています。
後に、栂尾から宇治などに広まりました。
千利休の登場
千利休は戦国末期から安土桃山時代の豪商で茶人でした。茶の湯(茶道・わび茶)の完成者として知られていて、茶聖と讃えられています。
利休は千宗易(せんのそうえき)ともいって大坂堺の商人でした。若い時から茶の湯に親しんでいたようなのでやはりその頃には利休の家は大変裕福だったと思います。
後に堺の南宗寺(なんしゅうじ)に通って禅を学び京都の大徳寺にも学んでいます。
今回南宗寺を調べてみましたがとても立派なお寺で驚きました。
もちろん当時もお茶は贅沢品でした。
織田信長が堺を直轄地にした時に信長の茶頭(茶坊主の頭)になりました。
織田信長は茶会を許可制にして臣下に茶器を与えて褒美にしました。
茶会を開くのは名誉な事でした。
安土桃山時代は南蛮(外国・ヨーロッパ)の文化が入って来てまた経済的な成長もあり豪華な茶の湯も流行りましたが利休はその逆で簡素簡略な茶の湯(侘び茶)の道を極めて行きます。
これは物事をシンプルに考える「禅」の影響と思います。
この頃派手好きな豊臣秀吉の黄金の茶室などが有名ですが利休は粗末な薄暗い小屋を作りこれが現在の茶室の元になっています。とても狭い小屋で「四畳半」という概念もここから来ていると言われています。
また利休は装飾のない真っ黒な茶碗を好んだと言われ、ここから「楽焼き」という焼き物が注目されます。
国宝 曜変天目(ようへんてんもく)茶碗
こちらが当時とても珍重された曜変天目茶碗(国宝)。中国の南宋時代のものです。とても華やかで妖しい魅力があります。南宋時代はとても文化が栄えていました。
こちらが楽焼きの茶碗です。「黒楽」と呼ばれるものです。
とても地味で田舎臭い味があります。
茶室をみてもそうですがとても田舎臭いです。農家のイメージでしょうか?
あまり華美な世界にいると逆が楽なのかもしれませんね。
もちろん当時利休は一目置かれる大権力者でした。
茶室はこんなイメージです。皆さんもご覧になった事があるかと思います。薄暗いイメージがあります。
狭い茶室で身分の上下なく「もてなす側ともてなされる側」というシンプルな関係性でざっくばらんな話をしたようです。
「求道者」としての千利休の凄みを感じます。
まとめ
この後、茶道は発達し茶室の周りの手入れや飾る掛け軸、あるいは花の活け方なども発展して行きます。また懐石料理も元々はお客をもてなす簡単な料理から来ておりここから発展して行きます。
今の懐石料理は贅沢な高価な物になりました。
江戸時代に、沢庵和尚が茶室で待っている徳川家光を大根のぬか漬けでもてなした事を気に入り「たくあん漬け」と命名したと言われそこから沢庵と呼ぶようになったと言われています。
また江戸時代のファーストフードである寿司もとてもシンプルなもので美しく禅的と思います。板前さんも頭を剃っている方も多いですしね。
また有名なホテルニューオータニの「エグゼクティブハウス 禅」にもこのマインドが生きているであろうと期待しています。泊まった事ないですけれど(笑)。
侘び寂びをテーマにしているようだし、こちらに「エグゼクティブ ガーデンスイート夢窓庵」というものがあるようですが禅で夢窓というと「夢窓疎石(むそうそせき)」というとても有名な室町時代の僧がいて足利尊氏が師と仰いだ方でまた、庭造りの名人でした。こちらが由来かと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
変わったお経 ミリンダ王の問い ミリンダ王問経 をご紹介 坊さんのどうでもいい雑学
今回は私の好きなお経「ミリンダ王問経」をご紹介します。
これは古代インドでのギリシャ人であるメナンドロス一世とインド人であるナーガセーナ長老との問答での対決が描かれたお経です。ちょっと変わってますね。
※メナンドロス一世が描かれたコイン
インド哲学とギリシア哲学の対決
メナンドロス一世は紀元前の西北インドにギリシャ人によって建てられたヘレニズム王朝の国王。
かなり学問に自信のある王様だったようです。このメナンドロス王がインド仏教の長老であるネーガセーナと聴衆の前で問答しました。
ナーガは蛇または龍をあらわしセーナは軍隊。「龍の軍隊」という意味です。
この「ナーガセーナ」がタイの「エメラルド仏」を作ったと信じられているそうです。
「魂の有無」について
このお経のテーマが「魂の有無」。肉体とは別の魂などという実体の存在を主張するミリンダ王とそんなものを絶対に認めないのが、仏教。
2人の間に論争の火花が散る。
「王問うて曰く、
『尊者よ、何人でも、死後また生まれ変わりますか』
『ある者は生まれ変わりますが、ある者は生まれ変わりませぬ』
『それはどういう人ですか』
『罪障ある者は生まれ変わり、罪障なく清浄なる者は生まれ変わりませぬ』」
これが初等的ながら仏教の本質をみごとに要約しています。
「生まれ変わり」=輪廻転生するということは罪の証なのです。
仏教は死後、六道輪廻と言って6つの世界を生まれ変わり続けると考えます。これは元々インドにあった思想です。
皆さんは死後もまた新しい生があるというとホッとするかもしれません。しかしお釈迦様は「生」そのものを「苦」と考えるので仏教ではで生まれ変わりは嫌なものです。
6つの世界とは天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄です。これを生まれ変わり続けることを「六道輪廻」と言います。
そしてこの生まれ変わりの世界を離れて静かな世界に入ることを「解脱」すると言います。どこかで聞いた言葉ですね(笑)。
なぜなら仮に善行を積んで「天界」に生まれ変わっても「神」にも寿命があり永遠ではないからです。一番短い寿命は800万年と言われていて人間からすれば長いですが。
この天上の神が寿命で衰えることを「天人五衰(てんにんごすい)」と言います。
この言葉は仏教にも詳しかった小説家の三島由紀夫の遺作「豊饒の海」の第4部のタイトルにもなっています。
もちろん三島由紀夫も魂の生まれ変わりを否定しています。
悟りを開いて解脱をすることが仏教の元々の目的です。先祖供養や厄除けが仏教の目的ではありません。
さて解脱するにはどうしたら良いのでしょうか?
2人の対話は続きます。
「『尊者は生まれ変わりなさいますか』
『もし私が死するとき、私の心の中に、生に執着して死すれば、生まれ返りましょうが、然らざれば生まれ返りませぬ』
『善哉(なるほど)、尊者よ』」
ここからまた2人の問答が続きます。
テーマは「魂の存在を否定する以上罰を受けて輪廻転生する主体は何なのか」に移ります。
この輪廻の主体については以前にブログで書いています。「識」である「阿頼耶識」です。魂ではありません。「無意識」である「阿頼耶識」。
無意識ですから生まれ変わっても当然わかりませんね(笑)。
まとめ
みなさまお分かりでしょうか?このような議論は既に仏教では散々にされてきた議論です。ただ日本の仏教では重視されて来なかった。
当然ながらお釈迦様は解脱されているので生まれ変わりしない。どこかの新興宗教の教祖様になったりしない訳です。だから仏教を学んでいれば「インチキ」と分かる訳です。
最後までお読みいただきありがとうございました。
2月16日から初めて銀座に泊まって来ました
今回珍しく土日に予定が無いということで銀座に友人に会いに行って来ました。
銀座だとホテルも分からないので有名なところでこちらに泊まって来ました。
コートヤードマリオット東京銀座ホテルです。
この時期春節のせいかとても高かったです。でも名前に「東武」って付いてるんですよね・・・。
地元の隣町に東武ホテルがあるのでよく泊まったことがありましたので。
フロントでチェックインするととても感じの良いスタッフでした。
「こちらのホテルは初めてですか?」と聞かれたので「マリオット自体初めてです」と答えました。
普通の部屋と思いましたが無意識にキングベッドを選んでいたみたいです笑
なんか調度品がデフォで曲がっていたのでテンション下がりました。ヒルトン東京で清掃の行き届いていない部屋に当たったばかりだったので・・・。
浴室を見ると東武ホテル感が凄いですね。エレベーターも古かった。
窓の外はこんな感じ。まあ期待してませんでしたから・・・。
程なく友人と食事のため外出。GINZASIXがとても近くでびっくりしました笑。
話題のホテルもありました。
今回急で予約も取れないということでこちらにお世話になりました。
今回友人が熱があるということであまり食べませんで物足りなかったです。
味は可もなく不可もなくといった感じ。
お相手はもちろん30代のおじ、お兄さんでしたw
解散が早かったので夜の銀座をお散歩。
お目当のお店に来ました。
今回2つ目のお目当、TUMI銀座店に来ました!!!
TUMIのキャリーオンのスーツケースです!(アイボリーゴールド)
良いですよね〜!重いけど(笑)。焼肉食べながら濃いめのハイボール飲んだら酔ってしまいついこちらを注文してしまいました・・・。残念ながら在庫が無いということで後日入荷したら代金を振込み確認次第発送となりました。
先日3月3日に実物が到着しました。5㎏あるのでとても重いです(笑)。まあでもRIMOWAは皆さん持っておられるので・・・。
少し店内を見せていただきました。デザインといい色といいとても気に入りTUMIのファンになってしまいました!
この鏡面仕上げのiPhoneケースがとても素敵でしたが残念ながらX仕様ということでサイズが合わず上の黒の革のケースにしました。7用です。あとは左の革のカードケースを購入しました。
こんな感じです。黒のカードケースはダンヒルの物をすでに持っていたので茶色にしました。店員さんにはナイロンの新作の物を勧められましたが、革の方が良いですよね。
左のスマホケースは周りがナイロンですが真ん中は革でとっても肌馴染みが良いです。しばらくスマホケースはして無かったのですがとても気に入ってます!重たいですけど(笑)
このあとは御上りさん全開でGINZASIXでお茶しました。
翌日はBiwakoさんに教えていただいたお店でランチしました。スープ・サラダ付きで税込1000円!!!コスパ最強!!柔らかいお肉で上品なお味でした。
その後新宿に移動して話題のプリンスホテルにチェクイン。
16時ごろ早めにお腹が空いてしまいトン活してました。
豪華に金箔付きです(笑)。新宿のにいむらです。
新宿ではスロットなどしてました。ホテルに帰ってオリンピックを観てましたがあまり集中できませんでした。夜中には気になっていたBARに行ってみました。牡蠣のアヒージョです。
翌日早起きしたので久しぶりに東京競馬場に行きました。
やっぱり中山競馬場より良い気がします(笑)。当日はフェブラリーSで小島瑠璃子さんがプレゼンターで来ていました。
馬券は余り買いませんでしたがまあまあ当たってメインのレースは内田博幸騎手が好調だからと追加で買った単勝が的中!!
このレースでノンコノユメと内田博幸騎手のファンになりました!G1レースらしく見応えのあるレースでした。素晴らしかったです。
この後換金して新宿に戻りバーガーキングを買ってそのまま地元に帰りました。
まとめ
今回初めて競馬場でプラスで帰りました(笑)。
新宿でうなぎでも食べて帰ろうとしましたが時間もないのでバーガーキングをお持ち帰りしました。結果としては電車の連絡が上手く行かず、うなぎを食べれば良かったです。
そして今回の東京滞在はとても良い思い出になりました!
最後までお読みいただきありがとうございました。
「か〜つ!!!」喝の由来について 坊さんのどうでもいい雑学
毎週日曜日朝に某番組で某野球解説者がやる「喝だ!」。
意外と有名なようです。この時間観るもの無いですからね・・・。
「喝を入れる」なんて言いますがその由来とは?
元々の由来は中国の唐の時代の臨済宗の開祖臨済禅師(臨済義玄 りんざいぎげん)が弟子を指導する時に「喝!」と怒鳴った故事から来ています。
どうでしょうか?とても怖そうな顔をしています(笑)
この臨済禅師は「一日三千喝」と言われるほどに弟子に対して「喝」と怒鳴りました。弟子を褒める時も喝、駄目な時も喝。「喝!」をされた時は弟子が自分で意味を考えます。
実はこれ臨済禅師のオリジナルでは無く、三代前の馬祖道一(ばそどういつ)がやはり弟子の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に対して「喝!」とやって百丈禅師は三日間耳が聞こえなくなった、というエピソードがあります。よほど大きな声だったのでしょう(笑)。
こちらではこのように紹介されています。
現代では叱咤激励の意味で使われている言葉ですが、これも禅の世界でよく用いられてきた言葉です。禅における「喝」には4種類あるとされています。
(1)相手の迷いや執着を断ち切ってしまう、剣のような「喝!」
(2)相手の思い上がりを粉砕してしまう、ライオンの咆吼のような「喝!」
(3)相手の力量を測るために発する、探るような「喝!」
(4)上の3つを包括する、大きな「喝!」
元々大切なものは言葉では伝えられないと言うのが禅の立場ですので「喝」に大切な意味を込めているわけです。
また臨済禅師と同時代に徳山と言うお坊さんもいてこちらはとにかく弟子をひっぱたいたそうです(笑)
質問に答えても30発殴り、答えなくても30発殴り、とめちゃくちゃですね(笑)
今ではちょっと考えられませんが当時はそれだけ教える側も教わる側も真剣だったかと思います。
当時は皇帝による大規模な仏教への弾圧があり、それに負けじと皆必死だったと思われます。当時の人が必死で残してくれたから今があるわけで。
実はこれ、うちの宗派独特と思いますがお葬式で必ず「か〜つ!」と大声でやります。
ウトウトしていた会葬者はこれでかなりビックリするようです(笑)
(女性のお葬式の場合に「い〜つ!」と言う場合もあります)
個人の名前、享年、どういう人柄でどういう人だったのか等の紹介が終わって最後に「喝!!」とやります。これは「迷いを断ち切ってあの世に行けよ」という意味と聞いています。
まとめ
いかかでしたでしょうか?張本氏がいつから「喝」をやり始めたかは定かではありません。ご自分が野球の指導者から教わったのでしょうか?
「喝」を聞いたら臨済禅師を思い出してくれると嬉しいです。
最後までご覧いただきありがとうございました。