キリスト教についてまとめ 坊さんのどうでもいい雑学

 

宗教を語るうえで避けて通れないのが世界最大の信者数を誇る「キリスト教

皆さんご存知ないかもしれないがキリスト教もまた多数の「派」に別れている

別れているということは「考え方が違う」ということである

しかしキリスト教は難しい。「分かりにくい」ともいえる

僕なりにまとめてみたい

 

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行為ではなく、すべて信仰

キリスト教の理解について最も大切なものは

 

アガペー(神による無限の愛)を信じる

◯予定説(神の救済にあずかるものと滅びに至る者があらかじめ決められているとする)

 

「汝の隣人を汝のごとく愛せ」(レビ十九ー十八)

「心を尽くし・・・汝の神、主を愛せ」(申命六ー五)

 

「汝の隣人を汝のごとく愛せ」は皆さんご存知かもしれません。

この愛がアガペー。「LOVE」ではありません。無償の愛で、相手に価値がなくても好きになる。

ここでの隣人は「嫌な奴」も含みます。異民族、異教徒が同じ都市に住んでいても彼らと仲良くしなさいということ。しかし、どこまで愛せば愛したことになるのかはっきりとした規定はありません。

また万物の創造主で全能である神のことも無条件で愛する。

神が人類を救済しようとする意思(愛)を持っているから、その愛にこたえて、われわれ人間も神を愛し、互いに愛し合わなければならない。

 

聖書の大部分の書簡(手紙)を書いたとされるパウロイエス・キリストが十字架で死ぬことによって、本来罪人である人間の「罪を贖ってくださった」から、人間は神の前で義しい(ただしい)者とされとされ、神の恩恵(grace)を得て救われる、と説明する。

日本のクリスチャンとして有名な内村鑑三は、この贖罪を説明して「これはまた非常に奇態な教義でありまして、多くの人々をつまづかせるものである」と言い切っている。

 

「他人の罪の責任を負わせるなどということができるのか?」

人類がキリストに罪を転嫁するというそんな無責任なことを神は許すのか?という疑問は残る。

 

内村鑑三 - Wikipedia

 

 

予定説

予定説というのは「誰が救済され、誰が救済されないかということは神が一方的に決めて必ずそのとうりになる」

これがキリスト教の根本原理である。キリスト教を「究極に突き詰めて行く」とこうなる。

これはものすごく理解が困難で、生まれたときからのキリスト教徒にもほとんどの人には理解できないという。

神というものは「不公平なものであるということ」をキリスト教徒は理解しなければならない。

 

予定説 - Wikipedia

 

宗教改革の指導者であったジャン・カルバンの中心教義が「予定説」

もちろん彼が突然言い出したのではなく、聖書が元になっている。

「公平・不公平」「善・悪」というのは人間の判断でそれで神を批判してはいけない。

パウロの「ローマ人への手紙」をみると「ローマにいる、神に愛され召された聖徒一同へ」(第一章)宛てられている。

「召された」ということは神に選ばれたということで、自ずから信仰心が起きる。そうでない人は神に見放されたことになる。これが「予定説」

 

つまり「福音」神の教えを聞いて信仰することは「予め予定された」ことであり信仰することができるということは「神に選ばれている」ことになる。

 

仏教では「因果律」というものがあり、良い原因があれば悪い結果がでるとされている

しかしキリスト教にはこれが無く、古代ユダヤの預言者たちは神のお告げに従っていても必ずしも幸せでは無い。しかし「幸福」というのも人間から見た「尺度」である。

 

「神」というのは「絶対」なので人間がお祈りしたからといって「右に行ったり左に行ったり」しない。神に祈っても結果は変わらない。しかし「それでも祈る」のである。

それが「信じる」ということになる。

日本人なら自分のためにならない神様なら拝まない。日本人は、神は人間の僕(しもべ)と思っている。

 

旧約聖書の「ヨブ記」には潔白で信仰心の篤い富豪ヨブが彼の信仰を疑うサタンと神との論争から試練を与えられ、家族の死や難病を病む羽目に陥らされた。

ヨブを慰めにやってきた三人の友人は、因果応報主義を前提として、ヨブの不幸を、

「ヨブは完全な善人のように見せかけながら、隠れてどこかで悪行をしているに違いない」といいたててヨブを追及している。

 

これは現代にも当てはまるもので

「不幸があったなら原因がある」というのが因果律の考え方でこれは仏教的で

逆に言えば「現在不幸なのは過去に悪いことをしたから」となる。

これと逆がキリスト教の「神羲論」であっていわば神は「試練」を与えるものであって

つまり、今は身分が低くて貧しくても、厳しく信仰を守ってゆけば地上において神の国が実現した時に真っ先に入ることができる、というものである。

 

奇跡

キリスト教で忘れてはいけないのが奇跡。

病人を治し、死者を甦らせ、水の上を歩くなど。これらを信じなければならない。

そしてイエスの復活。

これらは超能力やオカルト現象がありえないとする考え方なのです。

 

神の国

愛が実現され、神と人々が和解して(罪を許されて)生きる新しい世界が、神の国

これは裁きの日のあとに訪れるもので、そこでは人々は、天使のように性別なく暮らし、地上の富をいささかも必要とせず、「永遠の生命」を与えられる

神の国についてはイエスは断片的にしかのべていない。)

 

 パウロの思想

《未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい》と言います。カトリックの聖職者(神父)が独身なのは、このため。

 

二王国論

エスの「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」という言葉があり、魂を支配する教会と、地上を支配する世俗の政治とは別であるという考え方。

多民族のヨーロッパにおいて国はバラバラになっても教会は一つでいい。西ローマと東ローマに国が別れて教会も東西に別れてもお互いキリスト教であると認め合っていた。これが民族ごとの国民国家を作り、地上では国民主権は絶対でありうる。さらにその主権を市民が奪い取っても良い。

ここまでいけば民主主義ができる。これが近代国家の基礎になった。

そして思想の自由、言論の自由の基礎になりました。

教会と国家は独立しているので教会が言論で権力を批判してもいい。言論のことは言論で決着して権力を介在させない。こういう習慣から自然科学が起きる。

 

資本主義の発生

キリスト教、なかでもプロテスタントに特有の「禁欲」の考え方が、資本主義の成立に不可欠だったと言われています。

「禁欲」すなわち欲望を否定したはずが、反対に、利潤追求を目的とする「資本主義」を生んでしまった、とマックス・ヴェーバー(Max Weber)が分析しています。

 

まとめ

実はキリスト教も様々分かれており、教義の違いがある。

有名な「原罪」という考え方(アダムとイブが蛇にそそのかされて善悪を知る知識の木のみを食べてしまい楽園から追い出され、また死というものに怯えるようになった)があるがこれは正教会ギリシャ正教ロシア正教など)は言及していない。

しかし日本人にはカトリック教会(西方教会)、プロテスタントが最も馴染みがあるだろう。有名なローマ法皇が所属しているのがカトリック教会。

 

日本人には非常に難しい教義と思います。

日本のクリスチャンはほとんど「神父・牧師さんの人柄に打たれて入信する」というもので「キリスト教の教義を解りやすく教えてくれたから」というものは聞かない。

日本人には向いてない宗教と思います。

 

イスラム教は興味津々だったので勉強していたが正直キリストは馬鹿にしていたので苦労しました(笑)。

しかし慎重には書いたので大丈夫とは思います。

 

参考

日本人のための宗教言論 小室直樹

世界がわかる宗教社会学入門 橋爪大三郎