履正不畏 正を履んで畏れず 甲子園常連校の校名について
みなさんこんにちは。ご無沙汰していますよしてんです。
この時期高校野球が盛んに放送されていますが難しい校名も多いですよね。
決勝も履正社vs星稜でどちらも堅い印象の名前です。
どうしてこのような校名になったのか由来を調べてみました。
3つの角(稜)
まず星稜高校の校名について調べたのですが学園ホームページやWikipediaにも明確な紹介はありませんでした。星というのはもちろん星でしょう。稜はかどやすみという意味があり星の角(かど)となるようです。
星稜高校・中学の校旗は「三稜」というそうで三角形が二つ重なったような形で星を表しています。
三つ角の星は知・徳・体を表しているそうで、その三育に力を入れるという教育方針なのだそうです。
また威光があって神々しいという意味の(稜威 りょうい)という言葉もあります。
履正社
一方履正社高等学校の校名を調べてみると
履正不畏(りせいふい)正を履んで畏れず(せいをふんでおそれず)という言葉が校訓としてあります。自ら由し(よし)とするところを自由・公正に勇気と責任を持って力強く履み行う、とあります。
正しい道を畏れずに踏み進もうというところでしょうか。
後漢記の記述
グーグルで履正を調べようとしたら予測変換で三国志と出てきました。「後漢記」という書物について見てみたら、
「どちらも履正して清修する」という言葉が出てきました。
劉陶はつづく。「そもそも危は、仁でなければ、扶からない。乱は、智でなければ、救われない。武丁、周宣王の前例がある。ひそかに見るに、 冀州刺史の朱穆、烏桓校尉の李膺は、どちらも履正して清修する。さきに朱穆は冀州で、豪傑を彈糾し、饕惡を埽滅し、萬里を肅清した。李膺は、前後に歷職して、正身して率下した。戎馬をつかさどり、北疆を鎮撫した。李膺の神武は、朔州にあがる。彊胡は、漠北で李膺を懾した。朱穆と李膺は、中興の良佐であり、國家の柱臣である。朱穆と李膺を、おもく用いよ」
〔胡三省はいう。前年、朱穆は罪をえた。ときに李膺も免ぜられ、綸氏にいる〕
「冀州」というのは中国の漢代の行政区分で今の山西省を中心とした地域です。
刺史というのは州の長官の事です。
朱穆(しゅぼく)は人名のようですが調べてもちょっと出てきませんでした。
百度百科の翻訳は良くわかりませんでした。
履正清修 正を履んで清らかに行いを修めるといったところでしょうか。
履正不畏という言葉の語源はひょっとしたらこちらかもしれません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。少し気になったので調べてみました。
この他にも気になる難しい校名が沢山ありますね。
こちらでは後漢記が出てきましたがやはり三国志が出典という説もあるようです。
調べ方が悪かったのかちょっと出てきませんでした。
また役に立たない事を調べて書いてみたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
吉原の老舗 馬鍋の中江に行って来ました
先日珍しい馬鍋を食べて来ました。
ある方に教えてもらったお店でひと目で行ってみたくなり吉原まで行って来ました。
吉原は初めてでしたが調べて上野駅からタクシーを利用しました。
タクシーで吉原大門の交差点の近くの馬鍋屋さんと伝えたら分かってもらえました。
場所も特殊ですからね。
上野駅の正面玄関口のタクシー乗り場から乗って20分ほどで着きました。
料金は確か2千円ちょっとでした。
到着前にタクシー内からスカイツリーがとても大きく見えました。
こちらのお店です。とても雰囲気も良かったです。
元々は吉原に遊びに来た人がもっと遊びたいということで乗って来た馬をお店に売りつけて処分に困った馬を当時流行った牛鍋に倣って食べるようになったらしいです。
庶民の食べ物ですね。
私は馬刺しも好きなので今回楽しみにしていました。
とても古風な店内で良かったです。都会の若い女性には新鮮なようで喜んでもらえました。
お部屋の天井も高いお部屋なので真冬には寒いかなと思います。
ちょっとメニューが分かりにくく初めてですのでコースにしてしまいました。
(めんどくさがりなのでコースが好きです)
馬刺しと馬刺しの握りです。生姜で食べるのはやっぱり合いますね。
珍しい馬のタン、カルビなど。
馬肉ステーキ
お鍋用の馬肉です。真ん中が脂身。茶色いのは味噌ダレでこれを鍋の中で溶かします。
これが二皿来ました。(2人前)
こんな感じになります。肉自体は量は少ないですが締めにご飯が出るのでちょうど良かったです。
鍋の残りの汁をすくってご飯に乗せていただきました。お行儀が悪いですがこれが定番のようです。これがとても美味しかったです。
まとめ
今回ビールとハイボールでいただきました。生ビールは意外でしたがレーベンブロイでした。
たまたま隣で宴会だったようでとても店員さんが忙しそうでした。
中年以上の方の集まりでした。
今回お土産に馬油(ばーゆ。まーゆでも通じました)を購入しました。
一本1080円。これから寒くなり乾燥の季節なのでスキンケアにいくつか購入して飲み屋さんにバラ撒きました。
(本当は一本くらい余るかと思ったんですが笑)
とても雰囲気の良いお店で過去には有名な文豪も来ているようでした。
話の種にもなるし行って良かったです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「禅とジブリ」 鈴木敏夫 淡交社 を読みました (読書感想)
先日あるお坊さんの本を探していたら関連でジブリのプロデューサーの鈴木さんの書かれた「禅とジブリ」という本が出て来たので購入してみました。
タイトルがストレートなのに惹かれました。
アマゾンからお借りしました。(淡交社)
この本とても良い内容なのですが人生の達人同士が喋ってるような感じで良く分からない箇所もあるかと思いますので気になる所を噛み砕いてご紹介しようと思いました。
鈴木敏夫さんと3人の禅僧の対談
この本はジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんの対談の本になっています。
しかしその相手が全員禅僧。禅の修行を長年された臨済宗のお坊さんとの対話です。
内容的にはとても読みやすく編集者の方の力量かと思います。
そもそも淡交社(たんこうしゃ)とは京都に本社のある茶道関係の本を出版されている会社です。
「淡交」とは中国の戦国時代の思想家荘子(そうし・そうじ)の「君子の交わりは淡きこと水の如し」から来ています。
道教の思想家で中国の理想的な人物の一人です。
この淡交社の編集の方から「なごみ」という雑誌の連載をしないかと持ちかけられたのがきっかけで鈴木さんがNHKで観た細川晋輔住職に興味を持たれたことから始まります。
世田谷龍雲寺住職 細川晋輔さんとの対談
最初は東京の龍雲寺の若手ご住職細川晋輔さんとの対談です。
この細川さんのお父さんは京都妙心寺の役員としても活躍された方で大河ドラマ「独眼竜政宗」の禅宗指導をされた方としても有名です。
祖父は松原泰道さんといって般若心経や観音経の一般的な解説書を出してベストセラーのなった方でこの方もまた有名です。
晋輔さんも2017年大河ドラマ「直虎」の禅宗指導をされています。まだ30代ですが本山で長年厳しい修行もされていますから適任かと思います。
東京に住んでいるとマスコミにも声をかけられて大変でしょうね。
細川さん自身大変なジブリファンだったそうでとてもお話が盛り上がったそうです。
坐禅はゴミ捨て場
細川
今の時代、「何かをしたら、何かを得たい」という気持ちが強い。しかし坐禅は何かを得るというより、捨てる場だと思うんです。
お寺に来る方も、若い方が増えました。 やっぱり、自分を見つめる機会を求めているんでしょうね。ヨガをしたり食生活を変えたりする一環で、坐禅をする。時間の使い方が変わったということですよね。
細川住職の言葉です。
私も坐禅にいらっしゃる方がいると良くお話するのは
「いる物といらない物を考えて背負ってる荷物を減らす。どんな物にも優先順位を付けてやる事やらない事をはっきりしましょう。」と言っています。
悩む対象は少ない方が良いです。
うちに坐禅にいらっしゃる方も若い方ばかりですが仕事や人間関係の悩みが多いですね。これは昔からずっと人間の悩んでるテーマですね。
円覚寺派管長 横田南嶺(なんれい)老師との対談
円覚寺は鎌倉の名刹で沢山の個性的な和尚を排出している事で知られています。
古くは川端康成や夏目漱石も参禅したという坐禅会がある事で知られています。
そこの管長(かんちょう)、1番の代表が横田老師。
老師というのは中国語で先生という意味で師匠に悟りを開いたと認められた人です。
10何年も修行したりずっと修行の生活を続けている人です。
臨済宗では老師は例外をのぞいてみなさん独身です。
鈴木さんは若い時に円覚寺で坐禅体験をされていて強烈な記憶があったそうです。
「憧れの気持ちを持った」ともおっしゃっています。
鈴木
死は近くにあるもの、いや、なきゃいけないものだと思うんです。今の世の中、あまりにも死を隠そうとするじゃないですか。
横田
そうなのよ。テレビでも何でも、隠しちゃうでしょう。
鈴木
ジブリのことを話しちゃいますけれど、僕らは『火垂るの墓』という映画で死体を扱ったんですね。舞台は戦時中、荒れ果てた状況で死体はどうなるのか。肉は腐り、ウジ虫がわく、これをリアリズムで描いたんです。これは嫌われましたね。
これは最近良く言われる事で昔は一つの家族の構成人数が多かった。祖父母、父母、兄弟。そうすると家族の死に立ち会う機会が多かった。
最近では70年ぶりにお葬式を出したというお宅がありましたがこれは子供に「死」を教えるという意味では良くないですね。
ですから皆さんは身内に死があったらこれを是非子供たちの教育の機会と考えて命というものを教えていただきたいと思います。
禅のすべては「着て」「食べて」「出して」「寝る」。ああその通りだなと。 横田
横田
我々は、「自分に必要か必要でないか」を判断しないと大変なことになるだろうと。
鈴木
それはおもしろいですね。必要か必要でないか。
横田
だって要らないものもあるじゃないですか。
鈴木
そうです。要らないものだらけです。
横田
それを、仏教では「足るを知る」と言ったんですけれどね。自分はこれで十分だという範囲を見失ってはいけない。なおのこと、一人ひとりの判断力が必要です。それは「自分にとっての幸せは何であるか」を考えることでもあります。便利になった結果、不幸になって「こんなはずでは」というんじゃ何にもならないと思うんですよね。
これは私も先ほども触れましたけれど物事の優先順位を決めてキープするものと捨てる物を自分で判断する。何でもかんでもは手にはいりません。
これは物質もそうですが人間関係や仕事にも応用できると思います。
誰にでも好かれる事はできませんし、みんなに好い顔をしていると自分で自分ががんじがらめになってしまい窒息してしまいます。
坐禅の体験に来る方も仕事関係の人間関係で悩まれてる方が多いですが、お付き合いをする方、しない方を決めると良いと思います。
そして自分に嫌な事をする人は「どうしてこのような人間に育ったのだろう?」と想像してみて欲しいと思います。
きっとその人がそのような人物に育ったのは自分がそのようにされて育ったからだと思います。想像すると可哀想と思いませんか?
そしてその方は今きっと「地獄」にいると思います。
坐禅は心の調合
横田
親しい先生に漢方薬を出してもらいました。
「ああ体が温まる、何が入ってるの?」と訊いたら「管長、これにはトリカブトが入ってるんです」だって。
トリカブトは毒として有名ですが、実はすぐれた漢方薬なんですよ。
微量に摂れば体が活性化する。大量に摂ると毒になる。
怒りや憎しみ、競争心もそうなんですよ。ほどよく入っていれば、人間の体は元気になって働いていける。
鈴木
ちょっとの毒が必要なんですね。
横田
怒りや憎しみの場合は、それを調合するのは自分なんですよ。
坐禅が自己を見つめるというのはそこのことです。
どれくらい調合すれば、体を活性化させられるか。多かったら、逆にダメージを与えるわけですから。静かに坐って、自分にどれくらいのものが必要か、自分の体がどういう状態であるかを見つめるんです。
修行時代にはやっぱり嫌な先輩がいましたがそのおかげで「なにくそ!」という気持ちが出て頑張れましたね。
"日本的がおもしろい"
3人目は芥川賞作家でもある玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんとの対談です。
玄侑さんは福島県三春町にある福聚寺の住職です。
実は近くのお寺の集まりでお見かけしています(話してはいません)。
もちろん臨済宗妙心寺派のお坊さんで著作を読んだ印象では物凄い博識だなと思いました。
玄侑
私は、ジブリ作品ってすごく日本的だと思うんです。
たとえば小説家の村上春樹さんの作品って、火鉢から何から日本にしかないものは出てこない。翻訳できないものが出てこないんです。
ああいう国際性もあるのかもしれませんが、私には馴染めないんです。
ところがジブリは正反対じゃないですか。『ぽんぽこ』だって、外国には「タヌキは化ける動物」という前提そのものがない。
それをまったく気にしないで、「日本人が楽しめれば、海外の人も楽しんでくれる」と思ってるんだろうな、と。
鈴木
高畑さんは(外国人にわかるかどうか)多少考えてると僕は思うけれど(笑)。一方、宮さんはまったく考えていません。
(略)
『千と千尋』に関しては、かつてNHK教育テレビで毎週日曜日に「ふるさとの伝承」という日本各地のお祭りなどを取り上げる番組が放送されていて、これは偶然なんですけれど、僕と宮さんはそれを見続けていたんですよ。『千と千尋』は、お互いその前提があったから、すぐにおもしろいということになって、やろうと。
玄侑
結局、監督や鈴木さんが楽しめることをやっていらっしゃる。
鈴木
神さまだってたまにはバカンスが必要だと。日本の人たちが何となく思ってること、それを映画にしたいという感じなんです。
最初から外国の人は相手にしていないんだけど、結果として「ああ日本にはこういうことがあるんだ」という物珍しさ、それに飛びついてくれるんです。
玄侑
より日本的なほうが、興味を持ってもらえると。
これは日本文化全般に言えることと思います。
江戸時代という平和で鎖国している時代が250年もあった。
その中で経済的に豊かになったのもあって様々な文化も豊かになった。
鮨や天ぷらなどの高級料理が庶民の食文化から発展したのは有名ですね。
歌舞伎、落語、俳句、浮世絵も江戸時代に生まれたり盛んになっていますね。
これは誇って良いと思います。
独自の文化のない 国も世界には沢山ありますから。
まとめ
先日ツイッターに競技かるたの大会でフランス人チームが優勝したというニュースが流れて来ました。海外の方がかるたを面白がって憧れて始めてそれが盛んになる。
なかなか稀有なことだと思います。
しかし日本の文化を面白いと思ってくれるケースは沢山あります。
精神文化にしてもそうですね。
禅の精神もそうですがおもてなしの文化や相手の立場になって考える文化。
しかしこれらも昔から大切にして来た前提としての文化があってこそみんなが共有できています。
例えばたぬきが化けるという昔話もみんなが前提として知っているから話として通じる。
神さまがバカンスをするというのも独自の八百万の神という前提があっての事ですね。
この本はとても内容的にも深くて関心させられました。が、その分レベルが高いかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
寺院紹介 京都 東福寺
こんにちは。
今回は紅葉の季節も近いという事で京都の紅葉の名所東福寺をご紹介いたします。
慧日山 東福寺(えにちさん とうふくじ)
京都五山の四位に列している由緒ある寺院です。
ご存知と思いますが開基の九条道家が奈良の東大寺、興福寺に負けないような大寺院にするとの意気込みで両方から一字を取り東福寺としました。
九条家は藤原氏の藤原北家嫡流で五摂家の一つです。当時も非常に勢力があったかと思います。
山号の慧日山については調べましたが分かりませんんでした。仏教では慧は智慧の慧ですからとても重要です。般若心経は仏の智慧のお経とも言われています。日は日本の日か大日如来の日、または太陽の事かと思います。
JR京都駅から少し東南に下った所にあります。
開祖は博多祇園山笠の創始者
東福寺の開祖は円爾(えんに)というお坊さんです。教科書などで円爾弁円(えんにべんえん)と表記されていますが弁円と円爾はそれぞれ別の時代に使った名前なので後から名乗った円爾で呼ばれています。
と、ウィキペディアにありますが東福寺の公式HPでは円爾弁円となっていますね。
公式で書いてあるから円爾弁円で良いと思います。
円爾は静岡の生まれで18歳で得度。上野国長楽寺の栄朝、鎌倉寿福寺の行勇(ぎょうゆう)の弟子になり臨済禅を学びます。どちらも以前に書いた栄西の弟子です。
1235年に宋(中国)に渡り無準師範(ぶじゅんしはん)という人の弟子になります。
無準師範は有名な中国の僧で優秀な弟子が沢山いました。径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)の住職です。万寿寺は今の浙江省杭州市にあります。
当時、中国は南宋の時代で杭州は首都で13世紀には世界最大の都市でした。
南宋時代といえば文化の爛熟(らんじゅく)した時代で非常に文化のレベルが高く、日本も多大な影響を受けています。
万寿寺はその時代でも一番格式の高いお寺だったので世界中から優秀な人材が集まって来たと思われます。
日本の金山寺味噌はここから来ていると言われています。(径山寺味噌)。
また日本の茶道も万寿寺の茶宴の影響を受けています。
無準師範は書と画も優れていて水墨画の大家牧谿(もっけい)も無準の弟子で影響を受けたと言われています。
1241年に日本に帰ってきた円爾は博多に上陸してそこで承天寺(じょうてんじ)を開きます。
この時に博多で疫病が流行り円爾が博多商人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが始まりと言われています。
この為祇園山笠自体は櫛田神社のお祭りですが承天寺前をコースとして各曳山は承天寺にも奉納されるそうです。
またこの承天寺は円爾が宋から技術を持ち帰った事からうどん蕎麦の発祥の地とされています。
お茶の種も持ち帰り故郷静岡のお茶の元になったとされこれが静岡茶の元だそうです。
拝観時のポイント
その後円爾は天台宗徒に承天寺を焼き討ちされてしまい九条道家に招かれ上京します。
東福寺は度重なる火災にあっていますが「日本最古にして最大の伽藍」とホームページに謳っています。
中でも三門は1425年、足利義持の再建で禅寺としては日本最古の三門で国宝です。
また皆さんご存知の橋は「通天橋(つうてんきょう)」と言って仏殿から常楽庵(じょうらくあん)に通じる橋です。
1380年に有名な春屋妙葩(しゅんおくみょうは)というお坊さんが作りました。
1959年(昭和34年)に台風で壊れたので2年後に再建したもので橋脚部分は鉄筋コンクリートにされています。
常楽庵というのは主要な伽藍の北にあり開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂のある一角で1819年に焼失、1826年までに再建されました。
昭堂の中央部分は2階建ての楼閣になっていて、伝衣閣(でんねかく)といって金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)・呑湖閣(大徳寺芳春院)と並んで「京の五閣」とされています。
東司(とうす)
禅宗のお寺でトイレの事を東司といいます。
禅宗の七堂伽藍に欠かせない建物で東福寺の東司は室町時代のもので日本の禅宗建築では最古の東司とされてます。また雪隠ともいうので百雪隠(ひゃくせっちん)とも言われています。
修行僧は休憩の時間も決まっていてみんな一斉にトイレをするので百雪隠と言う訳です。これは珍しいと思います。
まとめ
東福寺ホームページからMAPをお借りしました。
これから11月の紅葉の季節の拝観時間は8:30〜16:00までだそうです。(受付終了が16:00)。
季節で拝観時間が変わりますので詳しくは公式ホームページをご覧下さい。
拝観料は通天橋・開山堂が400円
東福寺本坊庭園が400円
本坊庭園は方丈の周りに四つのちょとモダンな庭園が見られます。
私も京都に居た学生時代に一度だけ訪れました。また訪れてみたいです。
禅寺は門も色々特徴がありますので勉強してから見学すると楽しいと思います。
皆様京都に行かれましたら是非!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
お店紹介 かに道楽新宿駅前店に行って来ました
こんにちは。
聖と俗の間で生きているよしてんです。
先日かわいい女の子とかに道楽に行って来たのでご紹介いたします。残念ながら彼女のお友達も一緒ですが(笑)。
今回個室で予約しました。以前に別のかに道楽に行きましたがあまり雰囲気良くなかったので。
今回時間も人数も二転三転してしまいましたがお店には快く対応していただきありがとうございました。
8月の某日に行って来ました。彼女たちは電車が遅れたということで20分ほど遅れて到着。待っている間お店の方が気を使って冷たい緑茶を出して下さいました。
かに道楽といえばこの看板ですよね。叙々苑もこちらのビルでした。
こちらの4階になります。
店内は和のテイストが満載で女性店員は着物でした。着物で動くの大変ですよね。
やっぱり個室にして良かったです。しかしどんな顔で「蟹」なんて字を書いたのだろう・・・とか想像してしまいます。
左にあるのはフィンガーボールです。中身はほうじ茶だそうです。
待ってる間メニューを眺めていました。メニューが沢山ありどのコースが良いかな?と考えていましたがいざ女性が来たらまさかの「最初から全部単品」でした。
食事が終わるまでお会計がいくらになるかずっと不安でしたが一人2万円までは行きませんで安心しました。
一番最初が蟹の天ぷらでした。先に天つゆが来ましたがとてもお出汁の香りが強かったです。熱々で身も大きくて満足でした。
焼き蟹です。焼くと香ばしくて美味しいんですよね。たらば蟹かな?
お刺身です。もみじおろしで。
そして蟹料理の醍醐味、蟹しゃぶですね。
こちらの黄金色のお出汁にくぐらせていただきました。鍋の周りも蟹の模様でした。
しかし蟹料理はなかなかお腹が膨れなくて困りました(笑)。
この他にトイレに行っているうちに蟹の太巻きと生蟹寿司も注文されていました。よう食うなあ・・・(笑)。
こちらは私のお薦めの毛蟹の蒸し焼きです。時価でした。蟹が小さくてびっくりしました。札幌で食べた毛蟹は一杯600gもありました。こちらはスプーンも小さいです。
こちらが出てくる頃には結構お腹一杯になりました。連れもさすがに満足したようです。お寿司が少し余ったので包んでいただいて彼女たちに持たせました。
まとめ
あまりお酒を飲まなかったのもありますが3人で単品で頼みまくって1人2万円弱でした。
かなり満足いたしました。
また連れが炭酸ジュースが大好きだったのですがこちらのジンジャーエールはWILKINSONでとても美味しかったそうです。
たまにの贅沢なので奮発してしまいました。
機会があったらまた行きたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
名僧紹介 虎哉宗乙(こさいそういつ)
こんにちは。
今回は伊達政宗の教育係だった虎哉宗乙(こさいそういつ)をご紹介します。
伊達政宗の教育係は片倉景綱が有名ですが虎哉和尚も政宗が小さい時から助言を与えたと言われています。
以前、大河ドラマで独眼竜政宗をやった時には大滝秀治さんが演じられて印象に残っています。
虎哉宗乙は1530年から1611年に存命した臨済宗の僧で政宗の生涯の師だったとされています。
とてもガラッとした快活な人物に演じておられて「こういう和尚さんいるよな」と思いました。
歴史に詳しい方はご存知かと思いますが戦国時代には大名・武士の教育係には臨済宗の僧が沢山いました。
今川義元の軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)や武田信玄を教育した岐秀元伯
(きしゅうげんぱく)また織田信長の教育係も沢彦宗恩(たくげんそうおん)という臨済宗の僧で「岐阜」という地名を信長に提案したと言われています。
岐秀元伯に師事
美濃に生まれた宗乙は子供の頃から優秀で岐秀元伯の弟子になり仏門に入ります。
昔は勉強のできる子はお坊さんにするのは良くある事でした。身内からお坊さんを出すと親族や先祖の霊もみんなとても喜ぶと信じられていました。もちろん後ろ盾の無い者でも勉強次第では出世が望める、という事もありました。
1545年ごろ諸国に旅に出て甲斐・恵林寺の住職で知られる快川紹喜の元で学びます。
30歳前に悟りを開き奥州を旅した時に伊達輝宗の叔父である東昌寺、大有康甫の知遇を得て、梵天丸(後の伊達政宗)の教育係になります。
昔の臨済宗の僧は中国の古典にも詳しく、また一流の文化人でもあったので武将の教育係に適任だったと思います。禅宗の修行は上下の関係も厳しく、質素だったというのも武士の気質にぴったりだったかと思います。
政宗の高い教養
今でも何かお寺で重要な儀式があると「漢詩」を作ります。これは昔「五山文学」といって京都・鎌倉の寺ではとても盛んでした。
私も修行時代には漢文の句集を読んだり、漢詩の授業の時間がありました。
司馬遼太郎の本にも「伊達政宗は当時の大名には珍しく漢詩を作る事が出来た」と書いてありました。
「馬上少年過」(ばじょうしょうねんすぐ)
馬上少年過ぐ (ばじょうしょうねんすぐ)
世平らかにして白髪多し (よたいらかにしてはくはつおおし)
残軀天の赦すところ (ざんくてんのゆるすところ)
楽しまざるをこれ如何せん (たのしまざるをこれいかんせん)
馬に乗って戦場を駆け回っていた少年も時は過ぎ
世の中が平和になった頃には白髪も増えて
体が無事に残って生き残ったのも天が認めてくれたからだ
これを楽しまなくてどうするのだ
と、いったところでしょうか。これは政宗自作の有名な漢詩で五言絶句になっています。また和歌の教養も深く良く詠んでいたようです。
政宗の漢詩は韻も平仄も正しかった、と司馬遼太郎の小説に書いてあります。
政宗は幼少期には親元を離れ資福寺で過ごしたそうでこの時期からかなりの古典に親しんだかと推察します。
松島 瑞巌寺との関係
1604年から虎哉和尚は松島の円福寺の復興を政宗に依頼しこれを「松島青龍山 瑞巌円福禅寺」と改めました。(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)
再建にあたり政宗自ら縄張りを行ったそうです。
今では松島といえば瑞巌寺というほどの威容を誇っています。国宝の庫裏が有名で
平成20年からの寺内の大修理が行われてちょうど今年平成30年に終わり6月24日に落慶法要が行われたそうです。
まとめ
おそらく虎哉和尚は厳しく政宗に接したかと思いますが政宗が豊臣秀吉に呼びつけられて小田原に行く時にもアドバイスされたと逸話が残っています。
「虚心(きょしん)で敵意を持つな」と。
虚心坦懐(きょしんたんかい)という言葉がありますが先入観を持たずにありのままを素直に受け入れなさい、という意味です。
1611年に和尚は亡くなり仏海慈雲禅師の名前が送られました。 82歳でした。
若い時に行きましたがまた訪れてみたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
名僧紹介 今東光(こん とうこう)
こんにちは。
今回は今東光(こんとうこう)さんをご紹介します。
私たち40代よりちょっと上の世代の方が良くご存知の最近のお坊さんです。
今東光(法名 春聽 しゅんちょう
うちの本堂に今東光さんの大きな書があります。
「懈怠の比丘明日を期せず」(けたいのびくみょうにちをきせず)と読みます。
これは千利休の孫の千宗旦(せんのそうたん)のエピソードから来ています。
千宗旦が小さな茶室を作った時に参禅の師である大徳寺の清巖和尚(せいがん)に命名を頼もうと招待しましたが約束の時間に和尚は来ませんでした。
時間が過ぎたので宗旦は出かけてしまい、弟子に「もし来られたら明日また来られるように申しあげて」と伝言しました。
間も無くやって来た和尚は伝言を聞いて茶室の壁に「懈怠比丘不期明日」と書き残しました。
これは「遅刻するような怠け者の僧である私は明日の事はお約束お約束しかねます」という意味です。
これを見た宗旦は大徳寺を訪れて「明日の命もわからないのに、大切な「今日」をおろそかにして暮らしているのは愚かな事でした」という意味の歌を和尚の前で詠んで反省しました。
私が忙しければあなたも忙しいのに呼びつけるような真似をしてすみませんという意味があったかと思います。
茶道をやる方には有名な禅語らしいですが天台宗の僧である今東光がすっと禅語を選ぶ辺り教養の深さを感じます。
元々は作家
今東光は明治31年(1898)から昭和52年(1977)まで活躍したお坊さんで元々は作家でした。
後に直木賞も取っている売れっ子作家です。
1927年に芥川龍之介が自殺してから出家を志したと言われています。
出家してから派遣された大阪河内の天台院で出会った人をモデルに『悪名』という小説を書き上げ、これは後に勝新太郎出演で映画化され大ヒットしました。当時映画は最高の娯楽でした。
天台宗で出家してからは様々な勉強もして試験を受けてあちこちで住職をしています。とてもパワフルな方と印象を受けました。
僧正となってからは岩手平泉の中尊寺の管主にもなり復興に尽力しました。
その後、「出家したい」とやって来た作家の瀬戸内晴美 をすぐに引き取って出家させ自分の名前を取って「寂聴」の名を与えました。
晩年まで多数の著作を残し、またテレビのコメンテーターとしても有名でした。
今のテレビでは使ってもらえないでしょうね(笑)。
晩年にはいくつもの病気に悩まされて79歳で亡くなりました。
多数の作家仲間に幅広く慕われていたようです。
まとめ
私の祖父が地元の中学校の教師をしていた関係で元の教え子の方がわざわざこの書を貰って来てくれ当寺に寄付して下さいました。
その方は有名な「悪童」で祖父は彼を追っかけ廻して学校の外にまで飛び出すこともしばしばだったそうです。
昔はそのような子供が多かったですが 親御さんも教師を信頼し教師も落ちこぼれを見捨てない良い時代でした。
祖父もそのような子供の事は晩年まで良く憶えていました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。