名僧紹介 虎哉宗乙(こさいそういつ)
こんにちは。
今回は伊達政宗の教育係だった虎哉宗乙(こさいそういつ)をご紹介します。
伊達政宗の教育係は片倉景綱が有名ですが虎哉和尚も政宗が小さい時から助言を与えたと言われています。
以前、大河ドラマで独眼竜政宗をやった時には大滝秀治さんが演じられて印象に残っています。
虎哉宗乙は1530年から1611年に存命した臨済宗の僧で政宗の生涯の師だったとされています。
とてもガラッとした快活な人物に演じておられて「こういう和尚さんいるよな」と思いました。
歴史に詳しい方はご存知かと思いますが戦国時代には大名・武士の教育係には臨済宗の僧が沢山いました。
今川義元の軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)や武田信玄を教育した岐秀元伯
(きしゅうげんぱく)また織田信長の教育係も沢彦宗恩(たくげんそうおん)という臨済宗の僧で「岐阜」という地名を信長に提案したと言われています。
岐秀元伯に師事
美濃に生まれた宗乙は子供の頃から優秀で岐秀元伯の弟子になり仏門に入ります。
昔は勉強のできる子はお坊さんにするのは良くある事でした。身内からお坊さんを出すと親族や先祖の霊もみんなとても喜ぶと信じられていました。もちろん後ろ盾の無い者でも勉強次第では出世が望める、という事もありました。
1545年ごろ諸国に旅に出て甲斐・恵林寺の住職で知られる快川紹喜の元で学びます。
30歳前に悟りを開き奥州を旅した時に伊達輝宗の叔父である東昌寺、大有康甫の知遇を得て、梵天丸(後の伊達政宗)の教育係になります。
昔の臨済宗の僧は中国の古典にも詳しく、また一流の文化人でもあったので武将の教育係に適任だったと思います。禅宗の修行は上下の関係も厳しく、質素だったというのも武士の気質にぴったりだったかと思います。
政宗の高い教養
今でも何かお寺で重要な儀式があると「漢詩」を作ります。これは昔「五山文学」といって京都・鎌倉の寺ではとても盛んでした。
私も修行時代には漢文の句集を読んだり、漢詩の授業の時間がありました。
司馬遼太郎の本にも「伊達政宗は当時の大名には珍しく漢詩を作る事が出来た」と書いてありました。
「馬上少年過」(ばじょうしょうねんすぐ)
馬上少年過ぐ (ばじょうしょうねんすぐ)
世平らかにして白髪多し (よたいらかにしてはくはつおおし)
残軀天の赦すところ (ざんくてんのゆるすところ)
楽しまざるをこれ如何せん (たのしまざるをこれいかんせん)
馬に乗って戦場を駆け回っていた少年も時は過ぎ
世の中が平和になった頃には白髪も増えて
体が無事に残って生き残ったのも天が認めてくれたからだ
これを楽しまなくてどうするのだ
と、いったところでしょうか。これは政宗自作の有名な漢詩で五言絶句になっています。また和歌の教養も深く良く詠んでいたようです。
政宗の漢詩は韻も平仄も正しかった、と司馬遼太郎の小説に書いてあります。
政宗は幼少期には親元を離れ資福寺で過ごしたそうでこの時期からかなりの古典に親しんだかと推察します。
松島 瑞巌寺との関係
1604年から虎哉和尚は松島の円福寺の復興を政宗に依頼しこれを「松島青龍山 瑞巌円福禅寺」と改めました。(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)
再建にあたり政宗自ら縄張りを行ったそうです。
今では松島といえば瑞巌寺というほどの威容を誇っています。国宝の庫裏が有名で
平成20年からの寺内の大修理が行われてちょうど今年平成30年に終わり6月24日に落慶法要が行われたそうです。
まとめ
おそらく虎哉和尚は厳しく政宗に接したかと思いますが政宗が豊臣秀吉に呼びつけられて小田原に行く時にもアドバイスされたと逸話が残っています。
「虚心(きょしん)で敵意を持つな」と。
虚心坦懐(きょしんたんかい)という言葉がありますが先入観を持たずにありのままを素直に受け入れなさい、という意味です。
1611年に和尚は亡くなり仏海慈雲禅師の名前が送られました。 82歳でした。
若い時に行きましたがまた訪れてみたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。