名僧紹介 七朝帝師(しちちょうていし) 夢窓疎石(むそうそせき)

前回ブログで紹介した名僧中の名僧、夢窓疎石(むそうそせき)をご紹介いたします。

 

夢窓疎石、または夢窓国師はとても煌びやかな経歴を持っています。

国師(こくし)というのは尊称で「国の師」という事です。つまり天皇(帝)から贈られた号(別名)です。夢窓疎石は七人の帝から国師号を贈られています。だから「七朝帝師」。

しかも彼が亡くなってから四人の帝から国師号を贈られています。つまり弟子達もとても優秀だったという事です。

 

高級ホテルニューオータニの別館「夢窓庵」の名前はここから来ているかと思います。

 

現代にも残る「作庭」の名人

疎石は沢山のお寺を建てていますがそのどれもがとても有名で大変立派な庭を持っています。

 

西芳寺苔寺)(さいほうじ)、天龍寺、虎渓山永保寺(えいほうじ)、鎌倉瑞泉寺、等々大変華やかな庭園を誇っています。

中でも西芳寺は皆さん一度は庭の写真などご覧になってると思います。

 

西芳寺

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天龍寺

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永保寺

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瑞泉寺

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西芳寺庭園は特別名勝天龍寺庭園は日本最初の特別名勝、永保寺庭園も国の名勝、鎌倉瑞泉寺庭園も国の名勝になっています。また瑞泉寺は鎌倉きっての花の寺として有名です。

 

また西芳寺はあのスティーブ・ジョブスがお忍びで何度も訪れたそうです。

※現在拝観は完全予約制で事前申し込みが必要。拝観料3000円。

saihoji-kokedera.com

 

ちなみに義満が金閣寺を建てる際には西芳寺を参考にしたそうです。

 

これらの作庭をしたのには一つには当時仕事の無かった人達に仕事を与えるという目的があったと言われています。庭造りの手伝いをさせて賃金を与えたようです。

さてそんな夢窓疎石、どんな人だったのでしょう。

 

父は佐々木氏?

疎石は伊勢国三重県)出身です。佐々木氏といえば近江(滋賀県)の六角氏が有名ですね。ちなみに源氏です。

小さな頃に出家し、山梨、奈良、京都、鎌倉で学んでいました。

昔はより良い師を求めて全国を廻るのは普通の事でした。行雲流水と言います。

中でも1303年に鎌倉万寿寺の高峰顕日(こうほうけんにち)に学んだのが大きかったようです。後に1305年には同じ鎌倉浄智寺で悟りを開きました。

 

悟った後も修行を続け、弟子を連れて各地を廻ります。

1325年には後醍醐天皇の命により南禅寺の住職になっています。

翌年には住職を辞しまた鎌倉に向かいます。

北条氏からの帰依も篤かったようなので呼ばれたのかもしれません。

 

1334年に再び南禅寺の住職になっています。この年後醍醐天皇南禅寺の寺格を五山の最上位に定めています。

 

 五山というのは当時、五山十刹(ござんじゅっさつ)というお寺の格式を決めた制度がありまして当時の官寺(かんじー公式に幕府が認めたお寺)を網羅していました。

これは当時臨済宗のお寺が力を持ちすぎた為に幕府・朝廷が寺を統率しようとしたものでやはり中国に原形がありました。

この制度は学生時代義務教育で学んだ記憶があります。

 

 

五山 - Wikipedia

 

十刹 - Wikipedia

 

その中でも京都南禅寺は最上位または足利義満により別格で一番上にされています。

 

1335年には後醍醐天皇から「夢窓国師」の尊称を贈られます。

その後荒れていた西芳寺の建て直しをしています。

 

また後醍醐天皇の菩提を弔いたかった足利尊氏の帰依も受けて「天龍寺船」という中国(元)との貿易船を提案し、その資金で嵐山の天龍寺が建ちました。もちろん天龍寺の開山(初代住職)にもなっています。

 

疎石は76才で亡くなっていますが生前に

夢窓国師・正覚国師・心宗国師

亡くなってから

普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師を贈られています。

 

今でも残る有名なお寺の建立に数々携わっていてそれだけでも異例なのですが沢山の天皇・上級武士に帰依されています。これだけ政治に関わるお坊さんも珍しいのですが仏教は中国の「儒教」の影響も強く、国王、政治がよくならないと世の中が良くならないという考えもあったと思います。

 

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まとめ

この他にも著作物も残っており、足利直義にひらがなで仏教・禅の教えを説いた「夢中問答集(むちゅうもんどうしゅう)」を与えた他、足利尊氏などの人物を評した文章も残っています。

「夢中問答集」は分かりやすい為にその後印刷物になり何度も出版されたそうです。

またこの頃「五山文学」というものも鎌倉・京都で盛んになり「漢文」の詩や日記・詩文が多数作られこれも文化として木版の出版も盛んになったようです。

夢中問答集には疎石の庭造りに対しての考えも書いてあるそうです。

 

この肖像画を見るととても穏やかそうな顔をしていますが稀代の傑物と言って良いようです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。